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わたしの好きな花・葵


「菊は栄える 葵は枯れる 桑を摘む頃 逢おうじゃないか・・・・・・・・」
昔は意味も考えずに歌っていた・・・勘太郎月夜唄の1節です。(今は亡き小畑実のヒット曲)
佐伯孝夫の作詞、清水保雄作曲の一世を風靡した曲で・・・「伊那勘太郎」という題名で映画化もされ、名優の長谷川一夫、山田五十鈴が演じました。
今日この頃、野辺を通るとこの葵の花が満開です。赤、白の単色や深紅色やこの画像にあるツートンカラー・・・私の好きな花の一つです。


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by sazae322te | 2007-06-29 22:29 | 思い出

一昨日の本の中から・・・!

いまいましい石

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by sazae322te | 2007-06-23 21:21

朝顔

今年初めて咲いたマル葉紫の三姉妹揃い踏み。

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by sazae322te | 2007-06-21 07:02

近隣の花四景

近隣の花四景です。

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  クレマチス

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by sazae322te | 2007-06-20 20:51

鎌倉アジサイ

昨年のことが頭に残り何となく鎌倉に足を向けてしまいました。
目的は光則寺の「くれない」です。このお寺の由緒ある極めつけの紫陽花です。タイミングよく丁度ピークでした。

d0093704_14524225.jpg 後半は長谷寺の紫陽花風景です。平日にも拘わらず人、人、人で鎌倉は歩くにもやっとでした。







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by sazae322te | 2007-06-09 09:12

昭和20年...疎開



疎開・・・昭和20年


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昭和20年3月10日・陸軍記念日だったが、その日東京はB29の来襲により下町を中心として空爆が行われ、その一帯は焼野原になった。

親戚の村田さん一家も神田の家が空襲にあって焼け出され私たちの住んでいた世田谷の経堂の町に逃げ込んできた。

村田の実ちゃん曰く「ターちゃん!隅田川の辺で豊島が死体となっていたよ」(豊島はその当時、関脇で童顔姿の人気力士)

幸い我が家は世田谷の山の手だったため、その時点では難を逃れていたが、いずれ近いうちには・・・という地域上げての心配が高まってきた。

経堂国民学校(昭和16年太平洋戦争開始と共に当時の全国の尋常小学校は全て国民学校と呼称された。)も急遽、新潟県南魚沼郡の塩沢町と連絡を取り合い、縁故疎開以外の生徒の転校を依頼し当地の塩沢国民学校に承諾を得た。

集団疎開の準備は順調に進んで4月~5月にかけて何便かに別れ、東京を後にして上越線で新潟に向かった。私も例に漏れず5月の上旬に転校した。

当時の上越線で上野から塩沢まで10時間近くもかかったような気がする。

煙をもうもうと吐いて独特の汽笛を鳴らして走るSLだった。(今なら貴重な写真の題材だ)

鴻巣付近を通過したとき、敵機の旋回に遭遇し、汽車の座席の下に身を伏せた記憶がある。当時の座席や床は全て木製だった。窓を開けて顔を出せば汽車の煤で顔が真っ黒になった。


水上を過ぎる頃から外の景色は雪化粧に変わった。5月という季節なのに・・・やがて学校の教科書にも出てきた日本で一番長い「清水トンネル」を通過した。

暗くなってやっと塩沢に着いた。やはり汽車を降りたら駅前の道路は雪、雪、雪だった。4月半ばまで降り続いた雪がまだ解けずに町の至るところにあった。特に細い路地の両側は雪の壁だった。(後に知ったことだがこの昭和20年は大雪の年だった。無論、消雪パイプの設備などなかった時代で雪は積もるだけ積もった。)


集団疎開の生徒達は何人位いたのか分からないが、三つのお寺と二つの旅館の五つの場所に分散した。長恩寺、泉盛寺、平等寺、浜田屋、尾張屋である。私はその中の平等寺で約20名の生徒と一緒だった。勿論学年は様々だった。

新潟県立塩沢国民学校・・・明治5年5月の設立・・・我が資生堂の設立と同じ年だ。

「金城山と魚野川 高き清きを朝夕に ながめ心のかてとして 

教えの庭に励み合う 我らの命光あり ・・・・・・・・・・」・・・・・

あの有名な土井晩翠の作詞、小出浩平作曲の校歌は、結果として中途編入の僅か5ヶ月の塩沢の生活だった私でも、機会あるごとに歌われたため60年経った今でも覚えている。


後で知ったことだが母校で卒業校の経堂国民学校(小学校)には校歌がなかった。卒業後2年後の昭和26年、西条八十の作詞、古関裕而作曲の名コンビで作られた。


「みどり明るい武蔵野に きょうも集まる 元気なわれら こころは正しく 身は強く 伸びてゆく 伸びてゆく われらは経堂小学生・・・・・・・・・・・・」


従って私たちの経堂小学校の時代には校歌がなかった。でもそのときは、何故だろう・・・と考えたこともなかった。

塩沢国民学校のクラスの受け持ちは有馬先生という女の先生、級友は級長の小野沢ひろし、そして仲の良かった田村厚、樋口房雄、山本厚、小野寺?・・・など。

山本厚はコシヒカリ米を沢山食べて大きな体をしていた。栄養失調になりかけた私とよく相撲を取ったが、彼には負けなかった。

5月の半ば過ぎまで細い通路の両側の雪の壁の中を通って登校した。裸足の通学だったことを覚えている。足に感じた冷たさの印象はない。

お昼の時間に持ってきたお弁当を開けると、中身が半分近く片側に寄っている。しかもその大事な中身の3分の2はジャガイモだった。

地元の生徒は真っ白なコシヒカリを箱一杯に詰めてきたが、私たちの仲間は誰一人不平も言わず、泣きもせず手を合わせてお寺で作ってもらったお弁当を美味しく食べた。

ただお腹が空くので校庭の土俵の脇に生えている芝生の芽や、あぜ道に生えている蓬などを摘んで食べたこともあった。


夜になると経堂国民学校から随行している松木先生、井口先生(女性)の指示で全員が復習と予習の勉強に励んだ。誰一人成績は地元の生徒に負けなかった。


寝る前に着替えた寝衣には蚤や虱がついていた。毎晩のように衣類の縫い目の虱を潰して取るのも日課の一つになっていた。

また蚤に刺された後は蚊と違い何時までも痒みとあとが残った。

部屋の畳に跳んでいて捕まえるのも一苦労だった。

生徒の一人が焼けのやんぱちになって「虱踊り」を踊りだしたりした。


5月の下旬になると、つい最近まであんなにあった沢山の雪が一気に解けて、気候は急激に初夏の季節が漂い始めた。・・・というより新潟特有の湿度の高い日が続き蒸し暑い日が続く毎日になった。

そんなある日・・・父が突然見えた。国防色の服が汗で沁みている。

「匡可!お父さんに召集令状がきた。赤紙だ。でも暫くは内地らしい。元気で行ってくるから心配するな」・・・いつも無口な父だったがこのときばかりは口が動いた。

その反対に私の方が唖然として返す言葉がなかった。

父はそれだけの言葉を残し、先生やお寺の住職に挨拶して何処かに姿を消してしまった。

私は部屋に戻り身の回りのものに目を向けた。

経堂を出発するとき、私の荷物に「浅香 匡可」と達筆な筆使いで書いてくれた一つ一つを何時までも眺めていた。

子供心に・・・もう父に会えないかも知れない・・・そんな思いが頭の中を過ぎった。父の心中も同じ思いだったかもしれない。

このとき父は幾つだったんだろう?・・・38歳だった。

経堂の家に残されたのは母とタマ(猫)の二人・・・たった3人しかいない家族が一人一人ばらばらになってしまった。


6月の下旬、梅雨で大雨が続いていた頃、生徒の父兄が何人か経堂から見えた。母も一緒だった。母は・・・髪の毛が茶色になりかけ、やつれた私を見て驚いていたが、すぐに私を元気付けた。「タマも経堂の家を守っていてくれているのよ!ターちゃんも頑張ってね。」このような光景は何も私達だけではなかった。限られた出会いのひとときの親子の対面だったが誰もが先の見えない不安な気持を抱きながら帰りの汽車に乗り込む親達を見送った。


あるとき便所に行って大便をしたら、かなり大きな回虫が大便と共に出てきたこともあった。驚いたがこのことは誰にも言わずにいたが、暫くして忘れてしまった。

それでも学校は一日も休むことなく登校した。


7月のある夜、60キロも離れている新潟第二の都市・長岡の夜空が真っ赤に燃えている光景に生徒一同は唖然として寝ずに震えながら見ていた。

長岡は連合艦隊指令長官山本五十六の生誕地であり市内に生家があった。そのため長岡の町は100%近く空襲で被害を被り市内は焼け野原に化した。


母はもとより親戚の人達、経堂の近所の方々から当時手紙を沢山戴いたが、7月の最後の最後まで、誰からも敗戦を予期した内容の手紙は一枚もなかった。


8月15日・・・私は急性蕁麻疹と大腸カタルに悩まされ床に付していたが、その日の朝、突然の「玉音放送」の知らせに生徒全員は動揺した。

12時になった「ただ今より重大なお知らせがあります」・・・と感度の悪いラジオから放送が流れた。・・・「国民の皆様!ご起立をお願いします」・・・ふらついた体だったがきちっと立ち上がって静聴した。

天皇陛下の・・・ポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送が流れた。

誰もが暫くの間無言のままだった。


9月の半ば約5ヶ月間在籍した塩沢国民学校を後にして郷里の経堂に帰ってきた。幸い戦地に行くことなく終戦を迎えた父が生徒の父兄の方々と一緒に迎えに来てくれたのだ。


我が家の玄関に入った途端、タマを抱きながら母が「お帰りなさい」と迎えに出た。

隣の川島さんの勝ちゃんとお母さんも垣根越しに笑顔で出迎えてくれた。



                              浅香 匡可



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by sazae322te | 2007-06-03 09:40 | 思い出